「幻の」大阪市営地下鉄…”大阪市高速度電気鉄道"

大阪は堺筋にある高島屋東別館。かつて松坂屋大阪店として建てられた建物は、大正建築をよく保存した「美術館」としてよく知られています。

そんな東別館、実は幻の地下鉄駅が眠っているという噂があり、地下二階には駅としか思えないような構造が見られます。この別館が建設された当初、堺筋には地下鉄が建設される見通しはまだなかったのにもかかわらず……。

この記事では、時系列に沿って「幻の駅」がいったいいつ、誰が計画したのか、この奇妙な地下駅の正体について調べました。

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注意!

この記事はとても長いです。下の目次から適切なところへ飛んで下さい。

①とにかく結論が知りたい→鈴木氏は電気軌道の夢を見たか

②幻の地下鉄の前史から知りたい→限りなく地下鉄に近いプラン

③全部読む→このままどうぞ

今回の経緯

以前にも調べたこの話を、再び調べるに至った経緯を紹介しておく。

今回の話題もそうだが、「かつてあったこと」を調べるときの鉄則に「当時の言葉で調べる」というものがある。たとえば地名だと、昔と今では市町村単位で異なることがよくあるし、カタカナ名詞は戦前だとあまり見られない。これを間違うと、せっかくの資料を逃してしまうわけだ。なかなかどうして難しい。

そんなことをボーッと考えながら調べ物をしていた時、ふと今回の話題が頭をよぎり、私は自分の思い込みに気付いた。
 「地下鉄じゃなかった、のか」
以前調べたとき、私は大阪市営地下鉄に関わる話題ということで、地下鉄の資料に的を絞ってそれなりに調べてはいた。にもかかわらず結果が空振りだったのは、地下鉄の資料がそもそも存在しなかったからではなかろうか。高島屋東別館が竣工した当時、まだ日本には都市地下鉄はなく、鉄道といえば地上で蒸気を上げて走るほうが普通であったのだ。そんな時代に、「地下鉄道」の略語である「地下鉄」なる言葉、「地下鉄に関する○○」といった資料が存在するだろうか。

「地下鉄という単語は、はたして“初め”にあったのか」

答えは否だ。

私はこう考えた。
ならば、私が手掛かりを見つけられなかったのは「資料がなかった」からではなく、「地下鉄の資料中には無かった」だけなのではないか。そして次のように推測した。

大阪メトロの正式名称である「大阪市高速電気軌道」には元ネタが、つまりはもともと地下鉄ではないところに端を発した「高速電気軌道」なる地上鉄道の計画があったのではないか。

結論から言うと、この推測は大正解であった。この記事では、本調査で調べた新聞記事を引用しながら、机上の都市交通計画が地上の高速電気軌道に、高速電気軌道が地下鉄になる経緯を時系列に沿って解説する。

それではお待たせした。
時計の針は昭和恐慌より前の大正8年、西暦1919年に巻き戻る。

 

あるいはスライムでいっぱいの海

20世紀の初め、のちに東洋初の地下鉄を敷く東京と同様に大阪でも都市鉄道の敷設は論ぜられていた。増え続ける人口に対して、路面電車では明らかに輸送不足であり、かといって鉄道省に期待するのも望み薄だったからだ。そんな市内交通黎明期の大阪市の考え方について、市の担当者が以下のように語っている。

殊に交通機関の発達と完成につき大阪市としては地質の脆弱なると河川の多きと及び衛生上の設備等を顧慮せば高速度交通機関としては地下式を捨て高架鉄道に依るの外なく是は東京市などと大に事情を異にせる点なり
内務省及鉄道院~此の案は大体に於て異議なく略其の諒解を得たれば
~東京に於ける現高架線の経費を見るに~地下線のそれと比較せば約三分の一乃至四分の一に過ぎざれば費用の点より見るも地下線より高架線の勝れるを知るべし

大阪朝日新聞 1919.5.21 (大正8)】

第一期として梅田から難波まで其次が大江橋から九条までと云う順序であるそうな
そして其システムは複線で半哩毎位に停留場を置くのだと云う其建設費は一哩二百万円乃至二百五十万円で梅田難波間がざっと一千万円の予算であるそうな
~梅田難波間と云えば現在でも既に市の中心繁昌区域ではないか、勿論此中心繁昌区域内に於ても高速度の電車は不必要ではない、然し此の区間よりももっともっと緊急に必要な場所がある、それは市の接続町村との連絡線である

【大阪時事新報 1919.5.21 (大正8)】

 *1*2

  • 大阪では河川の多さから市内は高架鉄道が望ましい
  • 第一期は梅田~難波、第二期は九条~大江橋
  • この考えを国に提示し、おおむね賛意を得た
  • 建設費は高架のほうが地下線の1/3~1/4で済む

 この時点で、大阪市は地下鉄を引く気は毛頭なかったようで、特に大阪朝日の記事では「地下式を捨て」と検討の俎上からも落とす勢いだった。

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地下式は捨てられた

 とはいえ、これは軟弱地盤の都市では珍しいことではない。たとえば、市街が三角州上に有る広島市では昔ながらの路面電車が今でも市内交通を担っている。大阪も同じく中洲や低湿地だった場所がほとんどで、地盤が非常に脆い。たとえばJR大阪駅は、その想像以上の柔らかさに対応できず、一時期は文字通りズブズブとメートル単位で沈み込んでいた。スライムの海にレンガを置いたようなものである。そんなスライムの海が上町台地以外の市域全域に渡って存在するというのだから、地下式を敬遠するのも無理からぬ事だろう。そのうえ建設費が安いとなれば、地下式のメリットは見いだせない。

 また、あくまで伝聞としつつもすでに建設予定線が2区間示されている。ネットワーク状ではなく東西と南北の二路線による市内交通を検討していたことが推察される。路線を地図に起こすと、おおむね現・大阪メトロ御堂筋線京阪電車中之島線(延伸部含む)に相当するようだ。この時点では大阪環状線は完成しておらず、現在線でいうと桜島~大阪~京橋~天王寺~JR難波という「つ」の字型の路線だった。梅田~難波はそのど真ん中で省線の二大ターミナルを一直線につなぐ構想だったわけだ。九条~大江橋はその支線のような格好だ。

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1919年時点の構想

 

25マイルは遠すぎる

 そしてここからさらに2年、1921年には大阪市から委嘱された土木学会と鉄道協会の合同委員会から高架鉄道のおおまかな配線が発表される。

立案は将来三十年後の大阪市を予想して設計したもので路線の配置も循環式でなく縦横貫式
~現在の郊外電鉄との連絡には最も細心の注意を払ってあるが、梅田停車場を中心点として梅田に集中する計画ではない。尤も現在梅田附近は鉄道停車場の外阪神及び阪神急行両電鉄の終点を控えて居るからこの状態には深甚の注意を払い又湊町停車場及び南海線難波駅等も十分考慮して之等とは完全に連絡せしめる
梅田より湊町難波を経て恵美須町方面に至る線及び玉造方面から九条方面に至る線の如きは最も重要なるものであるらしい。而して路線は大体高架式であるが上本町天王子方面の如き地勢の高い場所は地下線に築造する事となった

【大阪毎日新聞 1921.4.14 (大正10)】

線路は北方池田を起点として梅田、湊町、難波を経て浜寺に達する線、同梅田より分岐して東横堀を経恵比須町を通って浜寺線に連絡せしむる線。東西には玉造より起って築港へ上本町六丁目より境川を経て築港への線路を敷設するが、東西の住宅地に対しては適当に延長され梅田から西方西宮迄も同様延長の計画である
~城東線を電車線として市の東方を廻る環状線とする
~其様式は場所と土質により地下高架両様式を採用する、其工費予算は未だ大体の見当であるが大体方針としては公債により市が直営する事になるであろう

【大正日日新聞 1921.4.15 (大正10)】

 *3*4

  • 循環線ではなく格子状
  • 最重要幹線は梅田~難波~恵美須町九条~上本町六丁目~玉造
  • 将来的には池田~梅田~浜寺築港~九条~玉造梅田~西宮を敷設
  • 支線として梅田~東横堀~恵美須町を検討
  • 構想として、省線城東線(現・JR大阪環状線の東半分)を市営化
  • 郊外との連絡のため梅田・湊町・難波に駅を置く

 1919年と比べると、想定されている路線の数が東西・南北の2本から格子状へと大きく増え、また省線(現・JR)の大阪~難波を結んでいた線は恵美須町へつながり、九条~大江橋線は現在の近鉄阪神線にあたる九条~玉造に切り替えられている。
 加えて市外への延伸も積極的に考えており、北は池田、西は西宮、南は浜寺までとそれぞれ阪神線・阪急宝塚線阪堺線に真っ向から勝負を挑む構図になっている。池田ー浜寺公園はおおよそ40キロ(25哩)と現在の御堂筋線の1.5倍近い長さだ。さらに驚くべきことに、東は延伸する代わりに各私鉄を連絡する城東線の市営化を想定していた。もしもこの構想が実現していれば、大阪環状線は存在していなかったことになる。そうなれば城東線と連絡していた阪和電鉄の国有化もなかったかもしれない。また片町線大和路線が孤立することから、これらとつながる東西線なにわ筋線にあたる計画はむしろ早々に実現していたかもしれない。

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1921年時点の構想

ビルに高速はつらぬけない

こうして市は構想を進めていったわけだが、一方でその路線計画は極秘だったため、市民の間でも「予想路線図」が数多く描かれていた。

国鉄道協会において開会の大阪市高速度交通機関調査委員会は今回「最終の集まり」として開かれる
~案の内容は秘密に附されているが大体左の如くに想像されている

 一、築港より東横堀を北浜一丁目に出て中之島河岸を経て九条通一丁目の本線に合すもの(循環線)
 一、梅田より西横堀、湊町を南へ直行して市外天下茶屋に達するもの(往復)

等でこれが軌条について~三線式を可とする
~枝線としては北浜一丁目より市外城東村、湊町より上本町、上本町より市外平野郷に達する各線などが未定線として考慮に加えられた
~尚大阪市の高速度交通機関設置に要する財源は都市計画事業と同様の難物で市の算盤では概算一億三千万円の見当であるが手近に控えて大電買収問題に対してすらその財源に行詰っている大阪市が何うしてこの巨大な財源を捻出し得るかは問題であろう

【大阪毎日新聞 1922.5.10 (大正11)】

 *5

  • 大阪市から委嘱された検討委員会が最終報告をまとめた。市民はこの通り予想
  1. 築港から長堀通松屋町筋を経由し北浜一丁目へ、そこから中之島・九条を通って築港に戻る環状線
  2. 梅田から西横堀を南下して湊町~天下茶屋まで結ぶ幹線
  3. 北浜一丁目より城東へ向かう枝線
  4. 湊町~上本町六丁目より平野へ向かう枝線
  • 財政に不安

 ここで記されている路線はあくまで予想だが、それでも読み取れることがある。

 たとえば、この段階ではすべて高架の計画であるため、道路の下に建設された地下鉄と違い、現実では阪神高速が占有している河川上空に鉄道が通る。当然、阪神高速を高架道路で張り巡らせることは難しく、あの有名な「ビルに高速が突き刺さる」光景は実現しなかったはずだ。

 ルートとして現在の鉄道線はほぼ存在せず、近い路線は京阪電車中之島線と大阪メトロ長堀線くらいなものだろう。加えて、ここでいう「高架」は建設が容易な鉄橋式であって現在のコンクリートの堅牢な高架ではない。つまりはシカゴ”L”である。大阪の景色は激変していたことだろう。

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こういう高架鉄道が道頓堀上空を駆け抜けていたかもしれない。

また、ここで出てくる「大電」は大阪電灯の略で、当時の大阪市場での石炭高騰によって経営難にあった電力会社である。大阪市は電気というインフラを守るため、大阪電灯が廃業する前に買収・市営化しようと試みたが、提示できる予算が少なすぎて相手は経営難にも関わらず断られるという失態をさらした直後だった。そしてこの財政上の問題が、次の段階で高架線敷設を後押しする一因となる。

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1922年に大阪市民が予想した市内交通線

地下の時代に高架を敷くということ

また、上記記事の2日後、こんな記事も出ている。

一部上本町、天王寺方面を横断する短区間の地下線以外は全部高架式とする

~新帰朝の委員から高架式は最早廃れて現今の高速度交通機関としては地下式でなければならぬとて欧米視察の結果を基礎とした意見も出たが、大阪市内の実際工事としては
一、地盤が軟弱である事
二、地下水が高い事 即ち下水面と地上との差が非常に短いから地下式にすれば浸水の懸念がある
~今度地下式の工事も容易であり経費もさまで高架式と違わぬことが判れば改めて同会で調査することとなった ~路線は絶対秘密としてあるが~複線として延長二十三哩強となり~梅田より日本銀行支店附近を経て難波に出で、築港より長堀附近を経て上本町、天王寺方面に至るものと連絡し右両線が東区の某地点で交叉するものと想像せられる
~経費は高架にすれば用地買収費が高いから~工費の多寡工事の難易からすると大阪としては一寸地下式に手を出し難い

【大阪毎日新聞 1922.5.12 (大正11)】

 *6

  • 欧州視察より帰国した技師の報告で、地下方式が議論に上がる
  • 浸水について工事に影響がなく、安上がりにできるならば地下線を検討する
  • 総延長は23マイル≒37キロ、梅田~難波築港~長堀~天王寺の二線で、両線は東区で交差すると予想

ことここに至って欧州視察に派遣していた官吏が帰国したらしく、なんと地下線が再び日の目を浴びることになる。『高架式は最早廃れて現今の高速度交通機関としては地下式でなければならぬ』とはなかなか先見の明があったと言えるだろう。結局、さまざまな問題から世界の各都市から高架の軌道線は米国を除いて姿を消していくこととなる。

とはいえ、一技師のセリフを高架式一辺倒の大阪市当局がなぜ受け入れたのか。どうやら、財政難で高架に必要な土地買収が苦しくなったらしいのだ。この当時の世はまさに大大阪時代であり、大阪の市街地は拡大を続けていた。そのため、当初想定していたよりも土地が高騰し、高架線とするには土地買収費がかかりすぎることになってしまっていた(1920年代はじめまでは今の環状線沿線ですら田園風景があり、土地の買収は容易に思われていた)。
その点、地下線であれば市道を使用できる。格段に土地は用意しやすいだろう。つまり、「地下線となれば工事に難はあるけんども、高架で必要な土地の買収額と、地下線で必要なそれの差が大きければ、トータルで儲けもんになるやん。調べるだけ調べとこ」ということである。

大阪市にとってみれば、都市を発展させるための鉄道づくりをしようとしたら、まさかの都市の発展そのものが障害となったわけだ。 

なお余談だが、この記事の筆者の予想する梅田~難波線は、これまでにでてきている中で最も御堂筋線に近い。さすが商人の町、先見の明は関市長のみならず様々な人にあったのかもしれない。

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同じく1922年に新聞記者が予想した市内交通線

スラップの話をしてくれないか 

その後も調査が進み、経営や施工の工法の検討がされている。

今回の高速交通機関の様式は最近欧洲各都市に行われているスラップ式を採用することに決したのである、此式は各都市で研究された音響防止の構造に成ったものであって大阪市のは高架式を本位とするが地形地質の関係から一部を地下式更に又或る局部に限って閉床式を採用する方針で路線の道筋は絶対秘密である
~大阪市直営のものとするのが適当と考えている

【大阪毎日新聞 1922.12.3 (大正11)】

 *7

  • 高架を基本とし、スラップ式を採用
  • 地質的に可能な場所では地下線
  • 路線は秘密
  • 経営は大阪市直営を予定

「スラップ式」is何。

地下線に関する調査の結果、どうやら工事費の高さと土地買収費の安さは完全には相殺しきれないくらいだったらしく、「可能なら地下」というお茶を濁すような結論に至っている。依然として高架線が主流なのは変わっていないようだ。また経営については、その主体は大阪直営とするのちの交通局構想が産まれつつ有るようだ。

「秘密」ということは、路線の検討が内部で済んでいるということであり、この1922年末の時点で大阪は高架鉄道(一部地下トンネル)による市営交通建設に大きく舵を切ったということになる。

 

大阪メトロ、〇〇の落とし子

だが、それから1年もしないうちに大阪の高架鉄道計画は予想外の事態によって抜本的な見直しを迫られることになる。
時は1923年9月のことだ。 

覆された大阪の都市計画
財政上の痛手とプランの建直し
市の技師隊東京に出張して調査

東京市の震災で文明都市として誇っていた諸施設が一たまりもなく破壊されたのを見て商業市としての完備—都市計画事業を急いでいる大阪市の当局はいずれも『これは一つ根本的に施設を考え直して見なければならぬ』と頭を傾け出した
~国庫補助金の交付が又候延びてどうやら立消えとなった
~理想道路は皆な焼けた。道路の幅員は大阪などの幹線は少なくとも三十間以上が必要だというが市の都市計画による最大幅員の道路は梅田、難波間の御堂筋広場二十四間幅となっている

高架電車を地下線に変更と路面電車
市電の方の関係では例の高速度電車は目下プランでは極く一部分を除いた外は高架にする筈であったが、高架は今度の震災でグニャグニャになった、それで『地下線にすると高架式の一哩の建設費の二倍から四倍も要るが大阪の地下は地下線にするには最も理想的な地質で満ちているから或はプランの内容が地下線に変更されるかも知れぬ』と市電当局の話だ、路面電車の軌道は今度の震災で割合に破損されなかったがサイドポールと架空線は滅茶になった、センターポールは交通上の障害ともなり危険だが大火災の際はサイドポールへ家が倒れかかって反って危険だサイドポールかセンターポールか是も問題になっている『架空線は平生切断落下する危険と都市の美観を損するので地下線にしたいが費用と現在の汚れた道路の状態ではまだ出来ないが将来地下にする計画はしている』との話、電柱は来月一日から電灯が市営になると漸次地下に埋めてケーブルとするからこれだけでも確かに安全になる

大阪朝日新聞 1923.9.29 (大正12)】

 *8

  • 東京都の震災の被害を視察
  • 東京では道路が全て焼け、高架鉄道はグニャグニャになった
  • 『大阪の地下は地下線にするには最も理想的な地質で満ちている』
ここでいう東京の震災とは、すなわち関東大震災のことだ。帝都の中心部を襲った烈震は、文明開化まもない木造とレンガが入り乱れる東京の構造物を破壊した。当然、鉄道も大きな被害を受けている。記事にある「高架がグニャグニャ」というのがどの程度の被害だったのか。今となっては知る由もないが、関西の方であれば阪神淡路大震災阪神高速が横倒しになっていた図をイメージできるだろう。それよりも何十年も前の技術で作られた高架橋がどのような末路をたどったのか。想像するに難くないだろう。
この東京視察を受け、岩田土木部長兼都市計画部次長は『大阪の地下は地下線にするには最も理想的な地質で満ちている』とまで言ってのけた。実際地下鉄が走っているのだから、広島ほど無茶ではないにしろ「最も理想的」というのは、おそらく方便に過ぎない。彼は先日の記事で欧州に出張した技師団に随行していて、欧州では高架が都市交通の主流ではないということを認識していた。また当時の大阪市の計算では、建設費は高架のほうが地下線の1/3~1/4で済む、となっていたから、それくらい言ってのけないと財政緊縮派に負けてしまうと考えたのではないだろうか。「ただでさえ時代遅れの高架が災害にも弱いとなれば、何が何でも地下線に変更せねばならぬ」という意思を感じる。
かくて、高架による大阪高速度交通構想はだんだんと潰える事となる。
 

誰がために金は使う

なお同じ記事内でこういうことも言っている。

『鉄筋コンクリート建ては従来どこでも建築費の安いのを自慢にしているが安物は安物で、窓と窓との壁間に鉄筋を入れないで塗り潰すなどは地震の際危険だから安物自慢はやめること、ゴタゴタの久宝小学校も自分の子の命が大切なら建築費を値切らぬ事』と技術専門家が口を出している
先日の大阪地震ではコンクリートブロック塀が見掛け倒しの鉄筋抜きの施工で、尊い犠牲が出てしまった。『命が大切なら建築費を値切らぬ事』という忠告は、100年の時を経て活かされなかったわけだ。残念極まりないことである。
 

レールの高さはどれくらい?

また同日、別の新聞ではこのような内容を伝えている。こちらは高架鉄道計画の行方についてより詳しい。長いが高架鉄道に関する部分を丸々示す。 

南北線は地下東西線は高架に 大阪高速度電車の方針 『今に出すぞ出すぞ』で本年三月から半年越し出し渋りながら市民の市電に対する小言を抑える道具に使っていた大阪市の高架式高速度電車のプランが今度の震災で高架式より地下線のほうが安全なことが市技師隊の東上調査で確かめられた最初直木博士等も『高架の方が工費も安いし第一地盤が悪く河川の多い大阪では地下線にすることは工事が厄介だから』というので上町筋の高所極く少部分だけを地下線にして残り全部約二十五哩を高架式で計画をすすめていたところ、地質硬軟を試験するボーリングを数十箇所行って見ると大阪の地盤は東京より遥かに良いそこへ今度の地震の経験でこのプランも根本からやり直すことに肚を極めたらしい尤も出願は今まで通り高架式でローケイションだけにしてこれを発表し、愈工事施行申請の際に地下線に変更する部分を改めて申請する段取になるらしい、立直そうとする計画の大体を窺うと 一、南北幹線の西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更するのを始め南北線は大体に於て地下線に変えること 二、東西線は元の計画通り高架式とすること 元来市内の高架式高速度電車は路面電車のように同一線路を共用するような交叉は出来ない、今までのように全部高架式にすると南北線の横堀線は東西線長堀川から築港に至る築港線四ツ橋附近で交叉せねばならぬ、若しこれを路面電車式に交叉さすと速力の早いのと二輛乃至五輛連結しているのと二分置きに発車させる為めに事故を惹き起す恐れがある、どうしても両線の中、一線を他の線の上を越すようにしなければならぬ、左様すると下部の線の高さ地上より二十尺、その上を車台とポールの高さ十四尺を残して線路を造ると上部の線を通過する電車の高さ十四尺とを加えると地上約五十尺にもなって万一脱線転覆の場合には乗客は全滅でこの一事が今日尚プランを発表することの出来ない癌となっていたのである、然るに西横堀川に沿うて走る南北線は用地費がしないで恐らく最高で工事費の二倍は要るものと見られている即ち工事費一哩当り二百五十万円とすると用地費五百万円計一哩当り七百五十万円でこれならば完全な耐震的地下線が出来るのでこの線を数町東に寄せ、梅田難波間を通る幅員二十四間広路の御堂筋線を取拡げる際に同時に工事を行って地下線にすれば一挙両得である そして将来省線大阪駅を始め阪神、阪急の梅田停留所が高架プラットホームになるのでこれと連絡するためには各駅前でエレベーター又は階段で地上と地下を往来するようにする 唯だ築港方面は地質が軟かいのと川が多いから東西線は元のまま高架式とすれば行悩んでいてた交叉の問題も解決するというので五日午後から市電気局に幹部が寄って内内プランの立直しを急いでいる

大阪朝日新聞 1923.10.6 (大正12)】

 *9

  • 今度の震災で高架式より地下線のほうが安全なことが確かめられた
  • 上町筋の高所極く少部分だけを地下線にして残りを高架式で計画をすすめていたが、大阪の地盤は東京より遥かによく、今度の地震の経験でこのプランも根本からやり直す
  • 両線高架で立体交差を考えると、片方が地上約五十尺(=約15m)にもなって万一脱線転覆の場合に乗客は全滅してしまう。また南北線は用地費が高く付いており、その予算があれば完全な耐震的地下線が出来るので、西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更。
  • 築港方面は地質が軟かいのと川が多いから東西線は元のまま高架式

震災を受け各所でボーリング調査をやり直したらしく、想像よりかは良い結果だったことから地下線が見直されたようだ。加えて南北線については前述の通り高架工事費+買収費=地下工事費となって、ならば地下で良かろうとなったようだ。

また実現はしていないが、下が高さ6m=2階建て一軒家、上が高さ15m=4階建てビルほどの高さの立体交差を考えていたことも非常に興味深い。高さ6mの高架鉄道など現在の日本ではまずありえない。ほとんど頭上を駆け抜けるレベルである。これが築港線以外にも東西に走るとすると、大阪の中心部では大型重機が引っかかって通過できない。のちの高度経済成長で大阪中心部はビルが建設できなくなっていたのではなかろうか。

こうして大阪には”地下鉄”南北線が誕生することになった。今の地下鉄は、ある意味「関東大震災の落とし子」なのである。

 

限りなく地下鉄に近いプラン

そして1年少し後、1925年1月、ついに本格的な”地下鉄”の工事が決定される。

これがおそらく最初の大阪市営”地下鉄”「大阪市高速度電気鉄道」の路線案だ。

高速度交通機関は本年から工事にかかる
地下線が実現する五年後の大阪

都市計画幹線の広路が本年度から起工されるので、地下七尺のところから掘返さなければならぬ地下線工事をも同時にやって、市民の迷惑を少くしようと云うので、急に工事着手の議が抬頭して来たのである 路線は最初梅田を起点として、堺筋を経て恵美須町至り、更に難波を経て南北線の地下を梅田に至る循環線であったのが、変更されて梅田から広路に沿うて、難波を経由、恵美須町に至る南北の一線と、玉造から築港に至る東西の線としその延長十二哩、工費約一億円に達する見込である。工事方法は築港線の如き高架で差支ない箇所は傘式単脚の高架線とし中央部は地下線とするが、隧道式によらず、地下七尺のところに開渠式の工事を施し、これを埋設せんとするのである。

【大阪毎日新聞 1925.1.22 (大正14)】

 *10

  • 梅田から御堂筋に沿って、難波、恵美須町に至る南北の一線と、玉造から築港に至る東西の一線
  • 市街(現・大阪環状線内に相当)は開削工法で地下線として施工

ではそのルートはどのようなものだったのか。

東西については、おそらくは現在の大阪環状線の内部に相当する中心市街では地下線、そこから築港までは高架線の計画のようだ。これは現在の大阪メトロ中央線が阿波座から地上に出る設計なのとほぼ一致することから、その前身にあたる計画と見てよいだろう(ただし森ノ宮から玉造までズレていて、中心部では長堀通を経由する)。

南北については、もともと梅田~恵美須町~難波~南北線~梅田の循環線の計画があったようで、その後半の恵美須町以降が建設されるという。ここでいう循環線は前掲の「南北線は大体に於て地下線に変える」という記述から高架のときの南北線とルートはほぼ同じで、西横堀が御堂筋に変わっただけと見てよいだろう。そしてその高架式の案は、遡ること三年数ヶ月、1923年2月に発表されていた。

大大阪交通の中枢機能
高速度電気鉄道の大計画成る

大阪市の思い切った大計画として二百万市民が驚異の心を戦かせつつ待ちかねた高速度電気鉄道の大プランは鉄道、内務両省と東西両大学とそれから大阪市から選ばれた十九人の委員内九名の特別委員とから成る大阪市交通調査会の手で絶対秘密理に三箇年という長い時間を費してこの程漸く完成来月中旬の市参事会で始めて公表されることとなった

~梅田停車場のいちばん前のプラットフォームから発した一本の西廻り線西横堀川の主として西岸を伝って信濃橋、四ツ橋から湊町停車場に連絡し更に南下して難波の南海鉄道終点を経て天王寺公園の真中にまで行く一方東廻りの線は同じく梅田から別れて北野から兎我野町を斜めに西天満から菅原町に出て中之島の東端をぶっ切り東横堀川を東岸に沿うて松吉橋に進み東南に折れて瓦屋町の寺屋敷下の切岸から浅地下式で隧道に潜り込み一直線に上本町六丁目大軌終点へ繋き更に地下のままで南西にカーブして茶臼山の下から天王寺公園音楽堂下に首を出して西廻り線と合いそこから一本になって阪堺電車の霞町と今宮両停留所の中間に結び付ける、更に本町六丁目から西に分岐した一線は生玉下から地下を出て日本橋筋から千日前の南手を難波に出て西廻り線に連絡する別に四ツ橋から分岐した一線西長堀川を這うて松島を横断し九条に渡り現在の電車筋を一文字に築港まで直線を画く

阪神、阪急の両電車は梅田駅構内に首を突っ込んで連絡し京阪は鉄道から払い下げを受けている城東線でこれも大阪駅に入る天満橋畔から地下で一筋に北浜に出て連絡するかどちらかであるが大軌は市内を地下にして上本町六丁目で地下のまま結び付き阪堺は今宮と霞町の間の分岐点から乗り入れる、かくて郊外各電車は郊外からの客を乗せたままで市内高速度線の定められたコースを自由に循環運転する

【大阪毎日新聞 1923.2.24 (大正12)】

 *11

  • 以下の四線を敷設
  1. 西廻り線(梅田~御堂筋~難波~恵美須町天王寺
  2. 東廻り線(梅田~東横堀~上本町~天王寺~霞町、今宮)
  3. 東支線(上本町~難波)
  4. 西支線(四ツ橋~九条~築港)
  • また郊外各線を以下のように乗り入れ
  1. 阪急線と阪神線は梅田から本線へ
  2. 京阪線は払い下げられた城東線より梅田から本線へ
  3. 大軌線(現・近鉄線)は上本町から東支線へ
  4. 阪堺線は今宮・霞町の間から本線へ

この記事、市広報の内容自体は高架線にまつわるものだが、この1925年の時点でも大枠の案と南北線のルートは変わっていないし、この時点(1925年1月)ではまだ第三軌条方式導入は決定されていないので、高架が地下になったことと南北線の西横堀から御堂筋へのルート変更の2点以外は信用していい記述だと思われる。

面白いのは私鉄各線の乗入れに積極的な点だ。「市内高速度線の定められたコースを自由に循環運転」とのことだから、もしかすると神戸高速鉄道のように車両を持たない市営交通になっていたかもしれない。 

はじまりの路線図

そしてこれが、その高架式の路線案と、それに手前味噌ながら25年時点の修正計画を書き込んだものである。
《赤線が梅田ー難波ー恵美須町の南北・西廻り線、青線が築港ー玉造の東西線、黄色の点線は未着工になることが決まった南北・東廻り線》

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(左)1922年時点の市内交通計画 (右)左図に1925年時点での訂正を加えたもの

そしてここで本題。高島屋東別館のある難波界隈を拡大してみる。

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南海なんば駅から天王寺駅にかけての比較

高島屋東別館の真横を、最初の大阪市営地下鉄西廻り線が見事に通っている!

たった2年間しか世間に公表されていなかった幻の計画線、大阪市営地下鉄「西廻り線」「東廻り線」が見事に描かれている。*12

これは間違いなく高島屋東別館地下の駅施設の元ネタだろう!
さらにさらに驚くべきことに、

通天閣の下を通ってるじゃん!

さっき述べたように、結局は地下鉄で建設されることになったとはいえ、これは元々は高さ6mか15mの高架線での建設計画である。さすがに概念図だからそう見えるだけか?さきほどの記事を抜粋すると

南海鉄道終点を経て天王寺公園の真中にまで行く

茶臼山の下から天王寺公園音楽堂下に首を出して西廻り線と合いそこから一本になって阪堺電車の霞町と今宮両停留所の中間

霞町・今宮なる停留所が阪堺電気軌道にあったことは確認できなかった。まさかこんなところで阪堺の幻の駅……まあありえなくはないが、ともかく南霞町(現・新今宮駅前)と今池の間違いだと考える。すると以下の通り。

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なんだか「有る」ように考えられなくもない

……いやまあ、結局地下鉄になったんだから、どこの下とかは関係ない話では有るんだが……これもし高架だった場合は初代通天閣の真下をガタガタと電車が走っていたことになるのか。やべえな大阪の発想。まさか高架が最低6mと低かったのはこのためじゃなかろうな……。

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初代通天閣の画。もし妄想どおりなら、新世界の道の上空を通って、通天閣の下半分の凱旋門アーチをくぐって高架鉄道が走っていたことになる。

*13*14

閑話休題。私は検証作業に戻った。

 

店子が先か、段取りが先か

さてルート的には、高島屋東別館の横に幻の計画があったことがわかった。では本当にそれがあの幻の駅のもととなったのか。実はただの偶然だったということはないのかを検証したい。

地下鉄道建設の段取りより先に店が設計を依頼していたなら、設計者は堺筋の西廻り線計画を知りえない。重要なのは時系列だ。

ではまず高島屋東別館、当時の松坂屋大阪店の建設年を確かめよう。えーと……

www.sankei.com


……むむ、1937年!?これでは計画からかなり差がある。しかもその間に、現在の大阪メトロの骨子となる幻ではない案が起草されており、ミステリーが復活してしまう!

と、焦ったのだが、よくよく調べると単純に1937年の建築というわけではないらしく、こんな記事を見つけた。産経新聞より頼りになるぜ←

建物は大きく分けて建築年別に3期に分けられます(厳密には4期)。

1期:南側 昭和3年
2期:北側 昭和9年
3期:真ん中 昭和12年

ただ、頂いた資料や建築本などを見ますと1928年(昭和3年) の部分は竣工の記載がないです。
これは大正12年竣工の真ん中・木造部分と統合されて昭和12年に竣工という扱いになっているからなのかな? 木造部分は取り壊した上で建てたのでしょうが、昭和3年部分の建物については、今でも内部に当時の階段などが残っています。

 つまり、1928年に木造建築として完成し、その後1934年に北側に別館が立ち、続く1937年に木造の上屋を建て替えて南北を継ぎ合わせ、現在の建物になった、と。内部に木造時代の階段が残っているのなら、まず木造ではないであろう地下部分も竣工当時のものだと考えてよいだろう。ならば幻の駅部分の建築年は最大で1928年まで遡ることが出来るはずだ

ここで時系列を整理すると、次のようになる。 

事柄
1919年 高速鉄道を高架として建設する計画が徐々に具体化
1923年 高速鉄道のうち、南北線を地下線として施工することが決定
1925年 高速鉄道の現・大阪環状線内を地下線として施工することが決定
1928年 松坂屋大阪店(一期)完成
1937年 松坂屋大阪店(三期)完成

ローマは一日にして成らずと言う通り、建築設計だって1年やそこらで仕上げたわけではあるまい。1928年の建築が、南北線の地下化が発表された1923年から幻の地下鉄が計画された1925年までの間に設計された可能性はそれなりに高そうだ。なお松坂屋大阪店の設計者は、東海の建築の大家である故・鈴木禎次 氏である。

結局、1925年以降の計画では、恵美須町に地下鉄が通ることはなかった。なのになぜ地下駅の設備が残ったのだろうか。もしかすると、テレビもネットもない時代ゆえに、鈴木氏が地下鉄計画の更新を知らなかった可能性もある。あるいは知っていたとしても、計画が復活する可能性を見込んで幻の駅を残したという可能性もある。

2人いる!

とはいえ、設計時期はいつか、という不確定要素が残る。少なくとも現・大阪メトロにつながる計画が立案される1925年秋の時点で建設計画がスタートしていなければ時系列が合わない。時系列を確かめるためにほうぼう調べ回ったが、ヒントになったのは故・鈴木禎次 氏ではなかった。調べるべき人物は鈴木氏ともうひとり、計二人いたのだ。

もうひとりとは、鈴木氏の盟友、故・木内真太郎 氏である。木内真太郎氏は著名な東海のステンドグラス作家で、松坂屋大阪店などにステンドグラスを納入していた。逆に言えば、建設計画が具体的にスタートしていなければ彼の仕事は始まらない。そしてステンドグラスというのは、実は美術関係の学者さんにとっては研究対象としてけっこうホットな話題で、製作年が論文として明らかにされているケースが多い。この木内氏もそうで、論文があった。それによれば、1923年には制作関係の仕事を請け負っていたらしい。

南北線の地下化発表が1923年、

大阪店の計画が動き出したのも1923年

地下鉄の計画が現路線につながるものになるのは1925年のことである。時系列に問題はないことがわかる。

鈴木氏は電気軌道の夢を見たか

以上の調査をもとに、またその他素人が調べられる範囲の情報から私が推測する結論はこうだ。

1923年かそれ以前、松坂屋は大阪店の設計をかねてより親交のあった鈴木氏に依頼。鈴木氏はその才能を遺憾なく発揮して初代の松坂屋上屋と地下、基礎を設計する。その後に都市計画との整合が確かめられ、その過程で地下鉄道南北・西廻り線との支障が発覚、地下駅の準備構造を設計に盛り込んだ。

1925年末、東京での政府との修正折衝を終えた大阪市は、大阪市営地下鉄の公式な初代計画、第一号線から第四号線までを発表し、堺筋を通る地下鉄計画は幻となる。だがそれを鈴木氏は承知していなかったか、将来的な計画再興を考慮して、地下の構造設計を変えなかった。

1937年。松坂屋大阪店は無事3期目の改装を終えた。その後に予定されていた4次改装は戦争の激化で中止となり、さらにその戦争の災禍を奇跡的に逃れたことで、この3期目の建物が現在まで残ることとなった。

そしてその戦争のさなか、1941年に鈴木氏は没し、幻の駅構造は誰にも語られることなく、幻のまま眠りにつくこととなった。

 

幻惑の駅と人

鈴木氏が旅立ってから4年、日本は戦争の時代を抜け、戦災復興のときを迎えた。そして1958年の審議会で大阪市営地下鉄堺筋線の計画が答申され、その後、具体的な事業者などが決定していくこととなる。

それからさらに半世紀、21世紀を迎え、松坂屋大阪店は高島屋東別館として80年余ぶりに改装に入ることとなり、「建物の美術館」として見学会を挙行した。そうして、実に1世紀近い年月のあいだ人々を待ち続けた幻の駅のホームに、やっと大阪市民が降り立つこととなったのだ。

 

ライターからの一言

 ここからは完全に余談だが、1925年1月以降の簡単な計画変遷を記しておく。 

事柄
1925年1月 高速鉄道の市街部分を地下線として施工することが決定
1925年10月 内務省大阪市高速度交通機関協議会へ計8路線からなる試案を説明
1925年12月 内務省大阪市高速度交通機関協議会より4路線からなる成案を受ける
1926年 上記計画が認可される
1930年 大阪市営地下鉄第一号線=御堂筋線着工
1934年 御堂筋線完成
1948年 認可された計画が修正され、大阪市高速度鉄道協議会第2回総会で高速鉄道5路線からなる現在線の基礎計画が固まる
1963年 堺筋線都交審7号答申を受け計画入り
1989年 今里筋線が運輸政策審議会第10号答申を受け計画入り

*15*16*17*18

余談の余談

なお今回の記事の章タイトル(大見出し)は、私のモチベーション維持のためにちょっとひねくれている。すべて何かのオマージュなので、よければ元ネタを考えてみて下さい。


*1:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*2:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*3:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*4:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*5:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*6:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*7:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101363&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

*8:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*9:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*10:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*11:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*12:「いやいや地下鉄は恵美須町までじゃないか、この部分は地下鉄は通らない」と思う人も居るとは思うが、それは1925年の話である。1923年の時点で南北線は地下化が決定されているため、1925年の東廻り線未成線化まではここにも地下鉄が通る予定はあったわけである

*13:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%A4%A9%E9%96%A3#/media/File:Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai_aerial_tramway_2.jpg

*14:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai.jpg

*15:なにわの地下鉄−各路線の概要

*16:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*17:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

*18:神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--